2013/04/15

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3


 (つづき)


 再度ひきつづき Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。


 今回はエイブラハムが est のどこら辺に「衛生功利主義」を見出したのかについて。


 まずは est (エスト)のことを簡単に。

 est とは1971年にワーナー・エアハード(Werner H. Erhard, 1935-)がはじめた「Erhard Seminars Training」の略称である。
 ラテン語で「it is」という意味になるらしい。
 日本でのちに「自己啓発(開発)セミナー」と総称されることになる能力開発プログラムの草分けといえる。
 
 話はやや逸れるが、この種の「セミナー」は、一般にヒューマン・ポテンシャル運動(そのものか、その派生)として捉えられる。
 これは、別に間違っていない。
 間違っていないが、しかし、個人的には釈然としない気持ちもないではない。
 
 両者のあいだには差異があり、その差異を追究することが(少なくとも自分の研究にとって)重要である気が前から強くしているからだ。
 でも、これについてはまた今度。
 
 
 さらに脱線します...。

 David Kaiser の How the Hippies Saved Physics という大変おもしろい本がある。

 タイトルの通り、量子力学の窮地をいかにして「ヒッピーたち」が救ったのかについて書かれた本。
 私のように量子力学について無知な人間でもおもしろく読めました。
 (全部読めておりませんが...)

 このなかで、エアハードの名前が、わりと印象的な形で登場する。

 
 戦中から戦後にかけてのアメリカ科学(物理学)界において、相対性理論や量子力学のようなジャンルは、かつての栄光の見る影もなく、失速の一途をたどっていた。
 戦争や冷戦構造が、よりプラクティカルな、たとえば軍事技術(レーダーや原子爆弾など)の研究を優先的に後押する状況をもたらしたからだ。

 その点で、量子力学のようなスペキュラティブな研究は、助成対象として敬遠されるようになった。

 その状況打開に貢献したのが、ヒッピーやニューエイジャーと呼ばれるような人たちだった。

 たとえばエアハードがその1人だ。

 彼は「Physics/Consciousness Research Group」という研究団体の立ち上げのための資金を供出するなど、経済的な援助によって量子力学の“延命”に大きく貢献した。

 Kaiser によると、エアハード自身、もともと科学、とりわけ物理学に関心をもっていたそうだ。

 彼の改名後の Werner という名も(本名はJohn Paul Rosenberg)、かの高名な物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)から取ったとされる(Kaiser 2012: 104)。
 (ちなみに Wiki によれば Erhard の方はドイツの政治家ルートヴィヒ・エアハルトらしい)

 ほかにも、たとえばエサレン研究所が「Fundamental Fysiks Group
」と連携し、1つの研究拠点のように機能した(Kaiser 2012: 109-19)。
 エサレンでは量子論に関するワークショップが1976年から定期的に開かれていたそうだ。
 
 そもそもそうした量子物理学者の何人かは、そのままヒッピーやニューエイジャーと呼んで差し支えないような人たちでもあった
 “物好き”たちの交流が、結果的に、現代の量子情報科学(量子コンピュータ、量子暗号化など)への道を確保した。



 で、ここからが、本題であるエイブラハムの論文について。

 (前置きの方が長くなってしまった...)

 エイブラハムは est の“思想”の核心をこう説明する。

 
 est は、習慣的な言葉の用法・意味を書き換えることによって、日常の行動や世界の見方そのものの問い直しを迫る、とエイブラハムはいう。
 
 そのとき個々人がどんな問題を抱え悩んでいるかはセミナーにおいてさして重要ではない。
 むしろそれを問題だと考える思考それ自体を矯正するよう働きかける。
人びとは est で、具体的な問題に応じるためにトレーニングを受けるのではなく、ある特定の性質をもった「世界」に応じるためにトレーニングを受ける。(Abraham 1983: 750)
 それは、対処療法的なセラピーというより、個人のもつあらゆる苦悩に対処することを目指した一種の根本治療の方途である。
 (そして抜本的と称する解決策は、しばしば何の解決ももたらさない。)
私たちがエストの成功を、その明らかに心理療法的な狙いや宣伝文句を実現する点で評価することに頑なにこだわる限り、エストを理解することはできない。エストはむしろ、個人の苦しみの問題に対する、ある1つの近代的な反応と見なされるべきだ。しかしこのこと以上に、かなり強い意味合いにおいて象徴的なのが、そのボキャブラリーである。当然ながら、このボキャブラリーは逐語的に正しいわけではないし、またそのように考えることはエストのメッセージを狭めてしまうことにしかならない。ボキャブラリーはむしろ、あらゆる種類の苦悩を、世界のもう1つ別のイメージにもとづいて「再定義」するのに役立つ。この根底的なイメージを見つけること、つまりエストの象徴的なコードを解読することこそが、ここで目論んでいることである。(Abraham 1983: 750)
 エイブラハムはそのコードを、「衛生功利主義」という鍵を使って解読しようとしている。

 だが、その意味を理解するためには、エイブラハムに従って、ヴェーバーを経由する必要がある。

 
 つづく。